とある日常 5

私は大学時代に2つのバイトを掛け持ちしていた。一つはCD屋のバイト、もう一つは学習塾の講師である。学習塾へは週2日程度出勤していたが、その他に塾の仲介で家庭教師も引き受けていた。

今回はその家庭教師の時の話しである。

 

ある年の4月、塾に紹介された生徒は中学2年生の男子学生。上にはハタチ前の姉と、下には2~3歳くらいの弟。この弟―仮に陸(りく)くんとする―は、歳が思い切り離れているせいなのか、家族の中でもアイドル並みの存在であった。

実は私、この家庭の訪問については徐々に気分が乗らなくなっていた。夕方5時くらいから授業を始めるのだが、ほぼ毎回欠かさずそのあとに夕飯に誘われるからだった。

「先生、今日も夕飯を一緒に食べて行ってくださいよ。」「ま、ま、ビールでも飲んで飲んで!」

当時私はお酒が得意な方でもなく、もちろん塾からもそのような接待を受ける事は禁じられていた。しかし私はその申し出を断ることができなかったのである。それはなぜか。

声をかけて頂くのが必ず強面(こわもて)の父親からだったからである。

おそらく初対面で街中(まちなか)にて出くわしたら、目を逸(そ)らす事は間違いのない風貌だった。五分刈り頭でがっちりとした体格、常に人を自分の物差しと比べて推し量るような眼光鋭い目つき。昔かたぎで無骨な印象。しかしただ怖い印象と言うだけではなく、話してみると親分肌を感じることのできる人物でもあったのだが・・・。

もちろんそのようなお方に対して、小心者の私が申し出を断る術(すべ)を知らなかったのは当然である。

「あざっすっ。頂きますっ!!」

完全に体育会系のノリである。悲しき条件反射なのである。

 

さて夏を迎えたある日、授業が終えたのを気配で感じたのか、いつものようにふすま越しに父親から夕飯に誘われた。そしてまたいつものように、

「あざっすっ。頂きますっ!!」

と言いながらふすまを開け居間に入り、あぐらの上で陸君を遊ばせている父親を見た。

(ん?)

よっぽど暑いからか、ランニングシャツ一枚になっている父親が座っているのだが、何か両肩の部分に違和感がある。

(んん?)

いつもの私の指定席である、大きな座敷机の父親の正面に座った時にそれは判明した。

両肩にそれぞれ立派な「龍と鯉」が泳いでいたのである。

(!!!)

・・・私にとって未知との遭遇であった為、目を見開き少々フリーズしてしまっていた。

(まずい、かなり凝視してしまった。おやじさん俺の視線に気づいているのか?・・・大丈夫だ、落書きに夢中の陸君にかかりきりだ。ナイス陸君!)

・・・不意に父親から声をかけられる。

「先生、まま、一杯。ところで最近の息子の成績は・・・」

(視点が定まらない。とりあえず父親の目だけを見よう・・・ムリムリ、なんか魚っぽいの視界に入ってくるわっ!っつーか全く父親の話しが頭に入ってこないし。まずいよこれ、どうするよ今日の晩餐!!)

いつもよりも真剣な目つきでうなずく私の姿がどうやら逆効果になっていたようで、父親の話しは思いのほかヒートアップしており、いつの間にか野球の話を熱く語っていた。

(なんだ?気づいたら野球の話しになっているぞ?・・・とりあえず、うまく相槌を打てていたって事だよな・・・よしよし、なんだかようやく冷静になってきた。)

 

父親が話している間に母親・娘・生徒である息子が居間に集まり着座して、各々食事を始めていた。

(まず考えてみよう。今この状況で俺が落ち着く為には①アレを自分から指摘するのか、それとも、②スルーしてこの場を乗り切るのか・・・)

(①を選んだとして、なんて声をかける?「素敵な紋々ですね」って?武勇伝を滔々(とうとう)と語られたときのリアクションはどうする?更にハードル上がるかもしれないぞ?・・・そうだよ。家族は見慣れているわけだから、あえてこの場で話題にしなくても良いんじゃないのか?ここの家庭の日常の夕飯の一部に自分も同化する事がベターじゃないか?②だ。②で行こう。俺なら流せる!!)

明確にミッションが定まった。

「決して視線をアレに向けることなく、決してアレの話題にならないように、いつものこの家族の見慣れた晩餐風景の一つとしてやり過ごす。」

覚悟を決めた。覚悟を決めた男は、小心者でもなかなか強くなるものである。

 

相変わらず陸君は父親のあぐらの上で落書き帳に必死である。

がしかし、何を思ったのかふと父親の横に立ち上がった次の瞬間、私は凍り付いた。

 

父親の肩に落書きをし始めたのである。

 

(り、陸くーん!確かにそこには何か描いてあるけど落書きするところじゃないから!!)

スルー作戦は予想外の出来事により、あっけなく失敗に終わった。

(私のさっきの小っちゃい覚悟を返してくれっ)

アレについてもう無視できない状況となってしまった。

 

ん?陸君が動き出した。飽きたのか?・・・いや待て、今度はクレヨンを持って色を塗り始めている・・・

 

(自由過ぎるぞ陸君!それは塗り絵でもないんだよ陸君!確かに色合い的に物足りないのかもしれないけど、その作業は俺がいない時にやっておくれ~!!)

私の心の葛藤など家族は知る由もないわけであり、その場には温かい笑いが起こっていた。

『んなもん一緒に笑えるか!!(心の中の大声)』

 

 

笑いたい時は、やはり大きな声で笑いたいものである。(「とある日常4」と多少かぶるが・・・気にしない。)

この時の「笑って良いのか悪いのかわからない、でも場の雰囲気を壊さない程度の微妙な笑顔(愛想笑いとも異なる)」は、今までの私の人生で、1回しか見せていない表情であることは間違いない。

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